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有泉、石川、福井

「芸術活動について思うこと」  

・作曲活動について

(石井) -作曲家が演奏家に演奏してもらう行為はエゴイズム。(雑談1:エゴイズム) =自分の美しいと思うものを他人を使って実現する。 作曲家が音楽を作っている間はエゴではないが、演奏してくださいとなるとエゴになる。 -作曲と演奏は分離している。作曲は演奏とは別に独立した行為として成立。 ジョンケージから、全てが分化されてきた。サイコロを振って音を決める。 作曲家に縛られない演奏家。作曲、紙に書く、演奏する、が分化。 自分は、自分で書いて、他人に演奏してもらう。書くという行為と作曲という行為が 結びつかない。作曲の範囲が広がっている。  

・演出活動について

(福井) 日本の現代演劇においては、演出家と劇作家が同一人物であることが一般的。戯曲を用いずに作品をつくるスタイルもあるが、戯曲を用いて上演を行うことの方が多い。 私は基本的に他の人が書いた戯曲を使わせてもらう立場なので、戯曲にはなるべく手を加えたくない。作家の書いたリズムや意図などを大切にした上で、どのように演出できるかを考えている。 演出する際は、俳優にまずはニュアンスをつけずにセリフを発話してもらう。書き言葉(戯曲の言葉)を意識して発話してもらうことで、観客に普段使う言葉との差異を感じてもらいたい。  

・コンテンポラリーダンスについて

(有泉)  コンテンポラリーダンスは「やらなきゃいけないこと」がない。 ジャンルとして共通のルールではなく、それぞれが自分のルール、メソッドを作る。 メソッドがないと、継承が難しという問題があるが、既存のメソッドや型から逸脱するというところから始まったジャンルであることを考えると、メソッドが確立されるとそれはコンテンポラリーダンスなのか、それをさらに逸脱するダンサーも出てくるのか。  

 

「作品制作・上演の目標について」

・作曲家 目標:タイムマシーンのように違う次元に連れていけると良い。 =自分の時間に観客を連れていける。(雑談3:違う次元とロジック) ロジックを積み上げたうえで裏切る。それによって別次元に行く。(ロジック=Myルール) 聞き手への意識:誘導はわかりやすく飛ばすときはパッと飛ばしたい。とはいえ難しいと伝わらないので、ある程度の制限は必要。全体として筋を通しているようにしたい。

聞き手に求めるもの:ロジックとルールを見つけてほしい。   ・

演出家 目標:普段の生活とは異なる次元を上演で立ち上げたい。日常のルールとは異なる流れを顕在化させる。 「現代演劇」である以上、現代社会への問題意識も提示するが、それはあくまでモチーフのひとつとして扱う。そこへの主張・意見の提示が作品の根幹ではない。  

・振付家 目標:簡単に白黒つけたり、あるいは気にも留めなかったりしてスルーしてしまう事柄をちょっと立ち止まって考える時間にしたい。私の意見を提示するのではなく、鑑賞者が作品を見ている間、何かを思い出したり思考したり。ダンスは抽象芸術なので、雰囲気とか名前のついてない微妙な感情とかを表現するのに向いてるんじゃないかと思う。自分が日ごろ感じたもやっとしたこととか、些細な胸に突き刺さったこととかをテーマにすることが多い。その意味で、日常が充実していた方が良いと最近は思う。でもそうしたコンセプチュアルなところだけでなく、キャッチーさや視覚的な面白さ、身体的な面白さとのバランスをとっていきたい。  

 

「違う次元とロジックについて」

福:世の中の一般的な常識がある。わかるし、守ってる方が楽。でもそうじゃない、矛盾するような別のルール、を

石:まあ、一緒ですね。ロジックがあるから裏切りがある。そこに至るまでのプロセス。ロジックを積み上げて裏切る。その裏切りを作るために正論を作り上げる。タイミング等は自分のセンス。

有:現代音楽はロジックがある?

石:僕はあると思う。スタイルは様々だから一概には言えないけど。伝えたいことがあるならばロジックは必要。

有:音楽を知っている人はみんなそのロジックを知っている?

石:そうでもない。共通言語なわけではない。自分のルールは自分で決める。一般化はあまり関係ない。

有:ルールを明確にはわからないけど、見たらルールがあることはわかる?

石:そうであると良いな。それを探す旅である。

福井:ロジックが同時に手法となる感じ?  

 

「現代とは」

現代音楽、現代演劇、コンテンポラリーダンスと、現代がつく。 現代とはなにか?どう発展していったか?発展の仕方に違いは??  

福: 現代演劇の起こりは反新劇。新劇は西洋を模してやったもの、それに対しての反論。海外の理論より知識を持って帰って来てそのまま日本で上演されていたのが新劇だった。1960年代終わりの学生運動あたりで新劇の否定。日本人の演劇は、カウンターカルチャー的に台頭して、それぞれが自分たちのスタイルを見つけて発展した。 1960年代から10年ごとに世代で区切って語られるが、平田オリザ以降、2000年代以降は世代でまとめることが難しい。 国ごとに現代演劇のもつ問題意識は異なると思う。   石:60〜70年代は色々な海外を受け入れた雑多な時代。クラシックは時代が推移してきたけど、日本の音楽はそれを一気に輸入した感じ。それと同時に観客も雑多に吸収。実験音楽と表現主義が混合。80年代に西洋でしっかり学んだ。  

有:日本のコンテンポラリーダンスは、舞踏が起源。60年代に西洋と東洋の身体の違いが自覚されて西洋の踊りをやるのは無理→舞踏が生まれた。でも一般的に今あるコンテンポラリーダンスは、海外からの流れのものも多い。舞踏は一個のジャンルとして独立している。  

 

オペラについて

市民集会で自分の主張を発信するという文化がオペラに繋がった。(1600年代)

→これが西洋では演劇に繋がった。同じころ日本では歌舞伎が始まった。   演劇やダンスは、西洋と日本で別々に発展しているけど、共通点はたくさんある。  

 

「今回発表する作品について」

・音楽 フルートとピアノの二重奏。アルモニヨウソ?調和、ハーモニー。3年前に制作した作品。 古来からピアノは伴奏というスタイルが多いが、1対1で対等にしたいと思い制作。調和というかバトルかも? 現代音楽について深く考えるというよりスタイルを吸収したいという感じで製作したもの。コンセプトというよりはフォルム。現代音楽を知ってもらうきっかけにはなるかな、と思い今回持ち込んだ。

福:作曲はするけど演奏は別というスタイルとのこと、演奏に注文はするの?

石:前回はかなり言った。自分の意図と一致させたい時に要望は伝えた。もう死んでいる人の作品が多い。作曲家が生きているのが珍しい時代なので、言ってくれると嬉しいと言われた。

福:出来上がるまでのプロセスが面白い。これ言ったらあかんな、という境界線は?

石:気をつけているけど言ってしまう時もある。演奏家の尊厳は守るべき、とは思う。本人のキャラクターとの兼ね合いもある。押し付け流のではなく、引き出すような。抽象的な表現が多い。

有:最近作っているのはどんなの?フルートやピアノが多い?

石:偏るのはよくない、と気をつけている。最近はコンセプチュアルなのが多い。蝉に関する音楽とか。リードを羽根に見立てて。穴に紙を挟んで、ノイズを入れる。管楽器そのものがセミに見える。バイオリンとチェロとクラリネットの作品。音によってノイズが鳴る。  

・演劇 15分間1人。 街の中を歩いているけど認識されていない。認識していない。透明人間。 聞こえているけど意味として認識していないというテーマ。 自身の作品は、街を中を歩くシーン、雑踏のシーンが入ることが多く、街をさまよっている人がいる作品を選ぶことが多い。今回はそれにフォーカスする。  

 石:プライベートな感じが良い    

福:今年の3月に小説をもとに上演した『左ききの女』(原作:ペーター・ハントケ、訳:池田香代子)のアフタートークにお越しいただいた映画監督に「音を大切にしている印象を受けた」という感想をいただいた。 普段は視覚的な面からアプローチするが、今回はみえているものよりきこえてくるくる音にフォーカスを当てている。 小説の上演も行ったことがある。小説にしろ戯曲にしろ、シーンの削減以外はあまりいじりたくない。 演出家はヒエラルキーの頂点に立ってしまいがち、なってしまいがちだが、その権力に任せて作家の尊厳を傷つけるような改変はしたくない。 観客が聞いた時に引っかかるような言葉、違和感を感じる言葉を大切にしている。書き言葉と話し言葉の違い。  

・ダンス 有泉:ドライフラワーとホルマリン漬けが似ている。ドライフラワーは枯れて土に還りたいのに、死体を見て美しいと思う自分がいる。生命体が朽ちないように保管して所有しておきたい、という欲求がエゴ。それを発端に作品が立ち上がっている。