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有泉、福井

それぞれのコンテンポラリー、現代の捉え方について

 

福井: ・現代演劇は「私たちが今生きている社会の中から生まれる演劇」という解釈と、「過去の演劇に対して、今行われている演劇」という解釈ができると思っている。現代演劇というジャンルは新劇や歌舞伎のように伝統の継承を絶対とはしない、と考えているので、作品をつくる上では前者の「現代社会の中から生まれる」ものを意識している。もちろんそれが全てではないが、卒業制作の『東京ノート』(作:平田オリザ)は2015年が戦後70年、今年3月の『左ききの女』(原作:ペーター・ハントケ、翻訳:池田香代子)は女性の社会進出への関心があったから上演した部分もある。

有泉: ・ メソッドを継承する目的がない、というのはコンテンポラリーダンスも同じ。 ・ 現代の社会の中で感じる違和感やおかしいと感じることを題材にすることが多い。作品をきっかけに、良し悪しを言い難い事について思いを馳せてほしい。答えを出すというより、問題提起。 ・ ダンスは古典との区別の意味で「現代」とついた歴史がある。クラシックの技法を使わない、という意味付けで。   ?音楽はどうなのか。ダンスと同じような位置付け/意味付けなのではないか。(→次回持越し)  

 

【現代をどのようにアップデートしているのか?】

有泉: ・ コンテンポラリーダンスは業界的に行き詰まっているように感じる。2000年頃は「ルールを破る/斬新さ」などを求めており勢いがあったが、現在は斬新さ、新しさについては出尽くした感がある。「現代」って、ジャンルとして続くと現代ではなくなる。

福井: ・アップデートされているのかは正直わからない。知る人ぞ知る、好きな人はハマる、といったマニアックな手法による演劇好きのための演劇になる危険性は常に感じているし、すでにそうなっている部分もあると思う。

 

作品の”面白さ”について

【”面白さ”のバランスについて】

有泉: ・ 作品で取り扱っているテーマに対する面白さと、純粋にダンスの動きや構成など「身体」の面白さ2つがあると思う。 ・ テーマに対する面白さと視覚の面白さの矛盾がある時が難しい。悩む。

福井: ・「上演して面白いもの」をつくる上で、まずどんなことが起こったら面白いかを考えることが多い。割と感覚先行型でつくっている。できあがったものをあとから論理付けて、アイデアが補強されればそのまま残すし、形だけの面白さだったら取りやめる。  

【作品を面白いと思うポイントは?】

福井: ・ シンプルな物を組み合わせて予想外な物が出てきた時。 ・ 知っていることを組み合わせて、見たことのない物になった時。

  有泉: ・ 既視感があるけど、そこに何か新しい要素があるもの。  

 

アーティスト自身について

【有泉汐織について】

・クラシックバレエをずっとやっていたから、無意識に出てしまう癖を振り払うのに必死だった。チョン・ヨンドゥ氏に学生時代師事していたのだが、見たこともない/新しい動きを振り付けることを目標とする人。バレエっぽい動き、形として認識できる動きを避けるようになった。

→「新しい動き」のみで現代社会の問題を扱う作品って、話だけ聞くとめちゃくちゃ難しい。新しい動きだけど、観客が分からなきゃ意味がない。(福井)  

【福井歩について】

・ 何も起こらないで終わる作品を選ぶのが良いよね、と言われたことがある。 要は事件や恋愛といったものがメインではないもの、あらすじを語っただけではこぼれ落ちるものが多い、伝わらない作品に関心がある  

【作品のスタンスについて】

有泉: ダンスって自分が思うほど何かを伝えることができない。基本的にダンスは伝わらないことがベース。

→動き<音楽、衣装 ・ 15分作品の場合、15分かけて如何に伝えるか、という勝負。 ・ 第1回目の尺八は、エンタメだった。続いて自分たちが上演した時、終始観客に委ねており、もう少し観客に寄り添っても良いのでは?委ね過ぎて観客が離れてしまっているのでは?と感じた

福井: ・演劇はセリフによってイメージを膨らませやすい反面、不要に意味が強く前に出過ぎてしまうこともあるので、そのバランスには注意を払っている。言葉の意味よりも「話す」ことであったり、俳優と言葉の間の距離の方に関心がある。 ・ 社会的な問題はあくまでもフックというか、それが上演のメインの目的ではないので要素として10%程度のつもりで入れている。      

【観客との共通言語について】

有泉 ・ アーティストは、普通の人があまり気にしない所(例:建物の傷など)に着目する。その場合、ただ純粋に創っているだけでは作品の意図は観客に届かないのでは?    

【コンテンポラリーダンス界の現在地について】

有泉: ・ 混沌としている。日本のコンテンポラリーダンス界は様々な文脈が入り混じっている。 「ヨーロッパやアメリカ発のコンテンポラリーダンス」 「舞踏がルーツのコンテンポラリーダンス」 …自分の身体との対話、行為。型ではなく、思想をうけつぐ。共通言語はなく、今までの自分がやったとこがない動きで成り立つ。 「バレエ出身のコンテンポラリーダンス」 …床に手をつく、などバレエでタブーだったことをやっていく。音楽があって、音に合わせて振付がある。立ち方、並び方、など無意識のうちの共通認識、ルールがある。独自のメソッドやレッスンがあり、同じ言語を持っている場合が多い。  

→動機は違うけど、結果として同じなのではないか →バレエは理解した上でやる、舞踏は理解してなくてもとりあえずやる感じ?わかってなくても良いかどうかは別(福井)